平和のリアルを考える。
日本という国はいささか特殊で、平和のリアリズムを直視し考えることを放棄してきた歴史があります。結局は自衛隊と日米安保がその役割を果たしてきたのだけれど、依然として国民はその現実を何となくは理解し評価はしつつも本質的な安全保障という視点まで目が届かずその論争からも避けてきました。
それで指摘したいのは、その本質を担い最前戦で努力し命をかける人々への欺瞞と甘えです。国民が現実を正面から受け止めないことで未だに二級市民扱いをされ、革新勢力からは違憲の烙印を押され続ける自衛隊。でもその恩恵にはどっぷりあずかりたいという国民がいます。これは民主主義国家としては恥ずべき事態であり、あってはならないのです。
こうした構造を国際政治学者の三浦瑠麗氏は「日本の甘えの構造」と言及し批判しています。
また故西部邁氏はそうした日本人に対し怒りを覚え「統合失調症」とかなり強い言葉で批判していました。
戦後日本の「ほぼナショナルアイデア」として君臨した(欺瞞に満ちた)平和主義の価値観からの脱却は難しいですし、様々な不信感があるのは分かりますが、それは幾多の犠牲のうえで成り立ち、その犠牲は普段甘えてきた国民たちの犠牲になった方々なのです。それを認識して初めて平和のリアルが見えてくるでしょう。
私は憲法は国体で国民の総意でルソーの言う一般意志そのものであると考えているので、自民党の公明党に妥協した改憲案は政治的であり、憲法の理念にこうした政治性は持ち込むべきではないと考えています。一方改憲されず国家として軍隊を認知しない状態が続くのは非常に危険です。
だからあのような妥協的な改憲案は理解はできます。ただ更なる改憲(2項の存在をどうするか)の発議が見込まれないということなのでそれはある種の無責任で正義と公正を基調とするリベラル勢力から批判されて然るべきです。
しかしそうであってもその叩き台をしっかり吟味し議論を重ねるのは国民に課せられた使命ですし、そして国民の代表である国会議員がするのは至極当然でしょう。
それに政治的理屈や御託をならべ審議に応じないのは民主主義と立憲主義に対する裏切りでありリベラルを語る資格はありません。
かなりぶっちゃけた話私は憲法9条は削除するべきだと考えています。
三原則の平和主義はもはや施行当時とは意味も概念も大きく違い、平和を維持するための方法も違います。
したがって、1項は残しても良いと言う保守勢力は存在しますが、もう一度国民全体で平和とは何かをリアルに考えるべきでしょう。
そのうえでじゃあ我が国はどのような方法で平和を維持するのか、その維持するうえで軍隊をしっかり保有し認知する重要性を説き、それに関する制度を構築すべきでしょう。具体的には文民統制の体系と国会の開戦権とそして徴兵制です。
また平和主義の理念としては、当時とは大きく変わったこの地域を再認識してその上で我が国はどういった平和国家を希求するのか、諸外国との関係はどうしていくを考えるのであり自衛隊の違憲状態の解消や、筋として云々といった単純な話ではないのです。
憲法は国民の一般意志(総意)ですから崇高な理想を掲げたくなるのは理解できますが、それに振り切ってしまうと文言に囚われてリアリズムの安全保障に対応できなくなるのは問題です。
なので井上達夫氏がおっしゃる、具体的な戦略性の明記は避けるべき、というのは的を得ているでしょう。
しかし、いろいろ言ってはきましたがいざ発議されて国民投票にかけられたら、あの妥協された政治的な改憲案にも私は賛成するのでしょう。
こうした論争が激化し対立化するものだからこそ政治的な妥協が必要であるのかなと感じますし、その改憲案を国民が判断したならそれは立派な一般意志ですから。