山狗日記

山猫日記ならぬ、山狗日記です。

リベラルの可能性①

リベラルとは自由、平等、正義などを価値に置く政治的・社会的イデオロギーの1つで、20世紀以降は国際政治の場でも平和構築のために積極的に実践されてきました。

リベラルは弱者への共感、圧政からの解放、そして多様性を確立し社会における希望と理想を語ることで人類に光を照らし、ヨーロッパを発祥とし市民社会の形成と諸個人の確立に貢献してきました。

国際政治の場では、悲惨な戦争の反省を踏まえて平和の枠組みをシステム化や地域統合といった形で実践され、未だリアリズムの優位は揺るぎないものの特定の地域や和平へ一定の成果は見られました。

しかし現在のリベラルには日本に限らず欧米リベラルを名乗る勢力の自己欺瞞と偽善が潜んでいてもはや自らの主張を通すためのある種の暴力性を帯びた武器となっていていることを指摘したいのです。

多様性の強要や独善的な正義の押し付け、そして過度な自由の風潮が産むアナーキー的なリベラルは果たしてリベラル足りうるのでしょうか。そして本来の価値である、自由平等正義は実現されるのでしょうか。

まずは昨日速報で入ってきたこのニュースの事例を元に考えたいと思います。

BREAKING:

This is quite a read. Woman who claimed Justice Kavanaugh raped her now admits they’ve never even met. She’s been referred to DOJ/FBI for investigation and could soon be in serious legal trouble.

(下記リンク)

https://www.judiciary.senate.gov/imo/media/doc/2018-11-02%20CEG%20to%20DOJ%20FBI%20(Munro-Leighton%20Referral)%20with%20redacted%20enclosures.pdf

(シャノンブレーム氏公式Twitterより)

これに関して国際政治学者の三浦瑠麗氏は同じくTwitterでこのように指摘しています。

「カバノー最高裁判事任命に際して女性教授が告発したあと、他の匿名希望告発者として名乗り出た人が実は活動家の女性で、嘘のレイプ告発でカバノー氏の任命を阻止しようとしたことが判明した。詳細や根拠が示されない告発までとりあげた結果だ。中間選挙前に民主党の信用を失墜させるきっかけに。」「…バカな味方ほど邪魔なものはないと民主党も思っていることでしょう。でも、こういう2件目、3件目の告発には愉快犯や政治的目的での嘘が含まれるものなのです。踏み込み過ぎた民主党の自業自得と言わざるを得ません。」

これはアメリ最高裁判事任命においてレイプ事件を起こし女性の人権を踏みにじるような人物(カバノー氏)が法の番人として君臨するなんて許せない。というところから始まった抗議運動でした。そしてその任命権者であるトランプ氏も女性の人権を軽視する「レイシスト」であるとしていつものトランプ叩きの始まりだったのですが、今回その告発が全くの嘘であり、単に人事を阻止するための工作であることが判明しました。

公平公正、正義感に溢れた法の番人を望むために今回の人事を不適切と抗議してきた勢力らは本当に信念を持って抗議していたのではなく、始めからカバノー氏憎き、トランプ政権にダメージを与えることを目的としたことで、リベラル的な正義の価値観はこうして政治利用されたのです。

このような自らの政治的主張を通すためにリベラルを名乗る勢力は本来の自由平等正義の絶対的価値観をも自分たちの都合の良いように解釈し「武器」として他者を攻撃しているとは何とも皮肉なことです。

そしてこういった勢力は自らが自己欺瞞に陥ってるとは気づかず、ひたすら敵対する勢力をレッテル張りして激しく攻撃します。その姿にはリベラル的な公正さも平和的で寛容な本来の姿はありません。

こうした独善的な欺瞞に満ちたリベラルの暴走は残念ながらアメリカに限らず、日本にもヨーロッパ社会にも存在するのです。それはまた次回触れるとしましょう。

私は保守を「信じている」ので、伝統文化を創造する要素である様々な立場、少数者の理解や保護には寛容だし、時には自身がマイノリティとも思います。また異文化を尊重することで自国の価値も認められると考えているのでリベラルとも大いに分かち合える部分はあると考えているし、保守とリベラルは対立するべきではないのです。

リベラルの基本的信条の自由、進歩、正義は人間の倫理に適っていることでしょう。しかし保守の人間のこうした倫理や理性を疑う姿勢は互いの立場を競合し妥協的ではあるもののより普遍的で最大公約数的な価値を生み出すでしょう。保守は自閉することなく、リベラルは己を過信せず真に寛容であった欲しいです。

リベラルの精神の実現は正義要求に鍵があると考えています。その精神が独善的で欺瞞に満ちないためには、立場を反転しそれを自身として許容理解できるか、更にそれは「正義性」を伴っているかを検証する必要があります。自分にとっての主張や正義は、もし自分が逆の立場ならそれを受け入れることができるか、それらは本当に正義を生むためのものであるか。それらを吟味し反転した立場との対話を通して初めて真のリベラルの正義と自由と平等そして寛容に繋がるのではないでしょうか。

無秩序な寛容は混乱と混沌を生みますし、独善的な寛容は異なる立場を排除し自らが崇高な存在であり異なるものたちを見下す傾向にあります。リベラルの精神の重要性は保守を信じている私からも十分必要性を感じていますし、ニヒリズムに包まれた世界では保守とリベラルの協調は必要です。理想を価値に置くリベラルだからこそ、それに近づくための努力と時には妥協が必要なのです。こうした考えをアウグスブルクの宗教和議の事例に準えて「妥協と実践のリベラリズム」と呼ばれています。私が前述に保守との妥協が必要としたのはこのためです。

また、ニヒリズムが及ぼす影響として、既存の価値観や伝統文化の「無・意味化」は保守にとっての大きな驚異であり、寛容の秩序の破壊とそれに伴う人権の希薄化と対立の明白化はリベラルにとって耐え難い苦痛です。

保守は価値の再興、リベラルは秩序の再構築で自由と寛容の精神を「意味化」してほしいのです。

オススメ読本

横手慎二 「スターリンーー非道の独裁者」中公新書 2014年
高坂正堯 「国際政治」中公新書 1966年
土肥恒之 「ロシア・ロマノフ王朝の大地」講談社学術文庫 2016年
細谷雄一 「自主独立とは何か」新潮選書 2018年
井上達夫 「リベラルのことは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください」毎日新聞社出版 2015年



今回はこの辺で。

平和のリアルを考える。

日本という国はいささか特殊で、平和のリアリズムを直視し考えることを放棄してきた歴史があります。結局は自衛隊日米安保がその役割を果たしてきたのだけれど、依然として国民はその現実を何となくは理解し評価はしつつも本質的な安全保障という視点まで目が届かずその論争からも避けてきました。

それで指摘したいのは、その本質を担い最前戦で努力し命をかける人々への欺瞞と甘えです。国民が現実を正面から受け止めないことで未だに二級市民扱いをされ、革新勢力からは違憲の烙印を押され続ける自衛隊。でもその恩恵にはどっぷりあずかりたいという国民がいます。これは民主主義国家としては恥ずべき事態であり、あってはならないのです。
こうした構造を国際政治学者の三浦瑠麗氏は「日本の甘えの構造」と言及し批判しています。
また故西部邁氏はそうした日本人に対し怒りを覚え「統合失調症」とかなり強い言葉で批判していました。
戦後日本の「ほぼナショナルアイデア」として君臨した(欺瞞に満ちた)平和主義の価値観からの脱却は難しいですし、様々な不信感があるのは分かりますが、それは幾多の犠牲のうえで成り立ち、その犠牲は普段甘えてきた国民たちの犠牲になった方々なのです。それを認識して初めて平和のリアルが見えてくるでしょう。


私は憲法は国体で国民の総意でルソーの言う一般意志そのものであると考えているので、自民党公明党に妥協した改憲案は政治的であり、憲法の理念にこうした政治性は持ち込むべきではないと考えています。一方改憲されず国家として軍隊を認知しない状態が続くのは非常に危険です。
だからあのような妥協的な改憲案は理解はできます。ただ更なる改憲(2項の存在をどうするか)の発議が見込まれないということなのでそれはある種の無責任で正義と公正を基調とするリベラル勢力から批判されて然るべきです。
しかしそうであってもその叩き台をしっかり吟味し議論を重ねるのは国民に課せられた使命ですし、そして国民の代表である国会議員がするのは至極当然でしょう。
それに政治的理屈や御託をならべ審議に応じないのは民主主義と立憲主義に対する裏切りでありリベラルを語る資格はありません。
かなりぶっちゃけた話私は憲法9条は削除するべきだと考えています。
三原則の平和主義はもはや施行当時とは意味も概念も大きく違い、平和を維持するための方法も違います。
したがって、1項は残しても良いと言う保守勢力は存在しますが、もう一度国民全体で平和とは何かをリアルに考えるべきでしょう。
そのうえでじゃあ我が国はどのような方法で平和を維持するのか、その維持するうえで軍隊をしっかり保有し認知する重要性を説き、それに関する制度を構築すべきでしょう。具体的には文民統制の体系と国会の開戦権とそして徴兵制です。
また平和主義の理念としては、当時とは大きく変わったこの地域を再認識してその上で我が国はどういった平和国家を希求するのか、諸外国との関係はどうしていくを考えるのであり自衛隊違憲状態の解消や、筋として云々といった単純な話ではないのです。
憲法は国民の一般意志(総意)ですから崇高な理想を掲げたくなるのは理解できますが、それに振り切ってしまうと文言に囚われてリアリズムの安全保障に対応できなくなるのは問題です。
なので井上達夫氏がおっしゃる、具体的な戦略性の明記は避けるべき、というのは的を得ているでしょう。
しかし、いろいろ言ってはきましたがいざ発議されて国民投票にかけられたら、あの妥協された政治的な改憲案にも私は賛成するのでしょう。
こうした論争が激化し対立化するものだからこそ政治的な妥協が必要であるのかなと感じますし、その改憲案を国民が判断したならそれは立派な一般意志ですから。